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田中人形「技」の系譜

京都御所お抱えの有職司

田中人形の「技」の系譜は、天正年間に始まりを見ます。
初代絵屋権右エ門はこうした時代にあって、天正元年、御所御抱え有職司として参内を許されます。
今で言う「宮内庁御用達」という職人最高の栄誉を得たのです。
以来、京人形司としての技は一子相伝を掟として代々継承され、現在十九代平安光義がその伝統技を受け継いでいます。
雅な京の風情と日本の心が丹念な手技で織り込まれた光義の作風は、その格調と気品において他に類を見ない逸品という評価を得ており、十九代にわたり連綿と受け継がれてきた伝統の技は、今も脈々と田中人形の中に流れ、京人形の総製造元として皆様の元に数々の製品をお届けしています。

平安光義について

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秀吉のころ(天正年間)

東山三条といえばまず浮かぶのが三条大橋。三条通りの鴨川に架かるこの橋の創設は明らかではありませんが、室町時代前期にはすでに簡素な構造で架橋されていたものと思われます。
本格的な橋となったのは豊臣秀吉の天正十八年(1590年)頃。橋の西たもとにある石碑にこの年号を見ることができます。
天正年間といえば、信長、秀吉が天下布武を唱え全国を平定する頃。まさに戦国の世が終わり、京の都を中心に日本の商業活動が本格的に起こり始める時代です。
秀吉によって本格的に架橋され、東海道の起点(終点)となるや、この三条大橋は京都の表玄関となり、人々や物資や情報が集まる一大ターミナルとなります。

「天正十七年」の刻字が残る石碑と三条大橋
「天正十七年」の刻字が残る石碑と三条大橋

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東山三条は田中人形のステージ

東山三条の界隈は、千二百年に及ぶ京都の歴史の移り変わりをつぶさに見てきた地です。
王朝時代、平安京の東西の主軸をなした三条通りの西方は貴族の邸宅がずらりと並び、きらびやかな宮中の香りがあふれ、牛車が行き交う平安絵巻の舞台。
やがて、秀吉が築いた御土居によって、京への「出入り口」は七つとなり、その一つが「粟田口」。 この一帯は京焼きの始まりとされる粟田焼きの窯元が立ち並んでいたところで、その歴史は桃山時代の茶の湯の隆盛の頃に遡るといわれています。
時代は下って江戸・元禄時代。時の幕府を大きく揺るがした赤穂浪士達を手厚く葬るお寺も界隈にあり、少し北へ上がれば建都千二百年を記念して整備された京の文教ゾーン・岡崎公園となり、一帯には著名な文化人や芸術家達の寓居跡が点在しています。
このように東山三条界隈は歴史と文化、そして芸術の舞台として発展を遂げてきたところなのです。

光義工房より望む東山三十六峰
光義工房より望む東山三十六峰

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